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しまむらまゆこです。

悲しむことができるから、死を乗り越えられる

パートナーの愛犬ショコラを看取ったとき、
なんでこんなに悲しいんだろうって思うくらい悲しくて涙が止まりませんでした。

なぜなら赤ちゃん犬の頃から14年間一緒に過ごしたパートナーに比べて、
わたしは晩年の2年間という短いおつきあいだったし、
そんなに深く関わったという意識もなかったので自分でも不思議なくらいでした。

それなのに、その後2~3日間くらい予定をキャンセルする程、心身ともに疲れきっていました。

わたしよりも長いおつきあいで、
いつもケンカをふっかけて遊んでもらっていた猫のヒデオは、
一度だけニャーンといったきり、
ショコラのそばに近寄ることがなく平静にみえました。

そう、死と認識した時点で違う世界のものになってしまい、
まるで、すでに存在していないことにしてしまっているかのように。。。

そのときに思ったのです。
わたしたち人間は悲しむことができるから、死と直面できるんだなぁって。

悲しみは、自分の中にぽっかりと空いてしまった失ったものの大切さを知り、
自分の心の痛みを感じながら最期のお別れをして魂を送り出し、
時間をかけて悲しんだ後に、
自分の心の中に大切な人(犬)の居場所を作りだすことができる。
大切な人(犬)を想い、
愛でつながることができるんだなぁと感じたのです。

このことは、自分の子供が亡くなったときには想像もできなかったことでした。
あまりにもショックが大きすぎて辛すぎるので、
自分がどこにいるのかわからない、
魂がさまよっているような状態でした。

当時の事を思い出せる今になって気がついたのですが、
どうやって暮らしていたのか、何をしていたのかを思い出せないことも多く、
あまり詳細には覚えていないのです。

そしてあの状況下では、
自分の感覚を切り離し心を閉ざしてしまわなければ、
おそらく自分を保っていることができなかった。

子供が亡くなるということは、それほど深い悲しみなのです。

悲しみが止まらない

こんなにずっとずっと悲しいのに、悲しみが止まらないのはなぜなんだろう、
というときは、
悲しみの下に他の感情を抱えていると言われています。

大切な人が亡くなって悲しい、そして。。。

なぜわたしを置いていってしまったの!
なぜ大切な人が奪われてしまったの!
なぜ、助けることができなかったの!
という怒りや怖れを抱えていることがあります。

大切な人が亡くなって腹が立つなんて考えられないかもしれませんが、
ずっと長く抱えた悲しみがなくならない場合は
ここを見ていくと楽になることがあります。

わたしは子どもを亡くしてから17年をかけて、
少しずつ悲しみをとり戻し、
悲しむことを自分に許可し、
自分にとってどれだけ大切な存在だったのかを知り、
今の自分とは違う世界に旅立ってしまったことを理解してお別れをし、
自分の心の中に居場所を作るということを学んでいきました。

子供を産み、育てることの価値と自己肯定感

縄文時代は、15歳まで生きられるのがおよそ半分ほどだったのではないかといわれています。

社会的な集団を維持するためには、
一人の女性が一生のうちに子供を産んだ人数は、だいたい4人ぐらい。

出産は、生きるか死ぬかの大仕事で、医者も医療もない時代。
へその緒だって、おそらく黒曜石(ガラス成分でできたよく切れる貴重な石)などで切っていたのだと思われます。
出産は、お母さんも、赤ちゃんも、命をかけた大仕事。
実際に、出産で命を落とす母子は珍しくなかったんじゃないでしょうか。

時代は進んで室町時代。
まだまだ幼児の死亡率が今とは比べ物にならないくらい高く、
生まれてから3年~4年たって初めて、
当時の戸籍に当たる人別帳や、氏子台帳に登録がされました。

七五三は、
死亡率の高い危険な幼児期を乗り切って、無事に成長してこれた事の節目として、
その子の生まれた土地の神様に感謝と加護を祈る儀式として、江戸時代に定着しました。
これが現代にも引き継がれています。

長い間、わたしたち女性は子どもをたくさん持つことから逃れられませんでした。
一族の存続のために子どもを産まなければなりませんでした。
そして当時はそれが普通の生活の一部だったのです。

わたしたちには当時の人たちの人生というもの、当時の状況、
そして新生児の死亡の近接間は想像すらできません。

たくさんの生命は、十分な死があって初めて流れてきたのです。
死亡率が下がり、以前ほど新しい生命が生まれなくなりました。

皮肉な表現を使うと、医療の進歩が新生児を死亡から救ったことで、私たちは充実感を失いました。

生命を守り後世に渡すのは女性

「女性は妊娠、出産という体験を通して、自分の重要性をはっきりと自覚できる体験をします。それは優越感があるからではなく、自分自身の特別な地位を自覚しているということです。」(「いのちの営み、ありのままに認めて」(東京創作出版 バートへリンガー 著/谷口起代 訳)から引用)

さらにわたしたちは、生命を産みだす行為は全ての女性に与えられたものではなく、
条件が整った時に初めて達成されることを肌で感じとっています。
医療の進歩が進んだとしても、出産は母と子が命を懸けた行為。
そして、子どもが無事に成長できることは本当に有難いことなのですね。

出産、育児を通して、
わたしたちは女性に与えられた特別な役割を果たしたことで、
自分の中に生命を繋いだものとしての誇りが育っていきます。

これは生きていく自信の拠りどころにもなり、自己肯定感も高まるものです。
ですが、この拠りどころだけに頼っていると、
子どもを失った悲しみは底なし沼のように沈んでいくのです。
そして、かつてのわたしのように、
自分には母親になることも許されない価値がない人間だと追い詰め、
自分を責め続けることになっていきます。

もしも、子供を失ったことを誰も責めずに運命として頭を下げるならば、
自分の払った犠牲と悲しみを通して失ってしまったものに目を向け、
心の中にその居場所を作るということには深さがあり、何かを取り返すことでしょう。

わたしたちはわたしたちがやって来た<いのち>の流れの中に立っていて、
その一部であり、
そこから後世へと渡していくのだということを認めると、
それだけで自分自身を誇らしく感じられて、
どこに拠りどころを置けばよいのかを感じとり、
ご先祖さまからのエネルギーを充分に受け、楽に立っていられて、
自分の能力を活かして可能性に満ちた人生を歩くことができるのです。