いつもありがとうございます。
自己肯定感を高める専門家 しまむらまゆこです。
死産、流産、中絶、事故死を問わず、子どもをなくした女性は自分を責めます。ドロドロの悲しみと絶望から抜け出るためにも自分で自分を罰するか、なにも起こらなかったかのように見ないことにしてしまうかのどちらかです。
これはパートナーシップにも影響を及ぼしますがそれはまた別の機会にお話しします。
このテーマでは、自分を責めていた私自身の経験から、子どもを亡くした母親がどうやって自分自身を取り戻していくかについてお話ししていきます。
かなり率直な表現もあるので、気分が悪くなりそうな方はこのまま閉じていただきますようお願いします。
お前には母親になる資格はない。
神さまにそう言われていると思いました。
今から18年前。私は28歳でした。妊娠中何の異常もなく、3人目のお産ということもあり全く安心していたので、こんなことが起こるなんて夢にも思いませんでした。
きっとわたしのせいだ。
この世に生まれて2時間で自分の一生を終えてしまった小さな生命(いのち)。
わたしは母親として子育てをすることも認められなかった。
新しい生命(いのち)を守ることができなかった。
あの時、陣痛をこらえている隣の人のことなど気にせずに、大きな声を出せたなら。。。
あの時いっそのこと、隣の人に助けを求められたなら。。。
せめて、救急処置を終えた「赤ちゃんを搬送します」と言われて、わたしもついて行きたいって言えたなら。。。
わたしは、新しい生命(いのち)を守ることができなかった。声を上げることができませんでした。
病院にいるのは辛いので、毎日通院するという約束で次の日に退院しました。
出生届と死亡届は同じ日でした。
おっぱいを止める薬を飲みました。おっぱいの張りはこなかった。
せめてもと、おむつを替えて抱きあげる。わたしが抱きあげたその体はもう硬くなり始めていました。
私自身の大きな何かが奪われる気がしました。
わたしのせいで、この子は生きることができなかった。
わたしが悪いことをしたから、その罰なのかもしれない。
なんでわたしじゃなくあの子なんだろう。
わたしは母親としても価値がない、欠陥品なんだ。
それから実家にいた1か月は、どうやって過ごしていたのかあまり覚えていない。その後自宅に戻った生活もあまりはっりとした記憶はないのだけれど、救いだったのは、娘2人が目の前にいること。彼女たちといっしょにごはんを食べ、お風呂に入り、寝る。娘たちが通う幼児教室のママ友や先生方に温かく見守られたこともあの頃の私には大きな支えとなっていました。
周りの環境に恵まれ、自分を責める気持ちはかなり長いこと続いていましたが、少し前向きになろうという気持ちも芽生え、あの子の短い一生で何を私に伝えようとしていたのだろう、私はあの出来事から何を受け取ればよいのか、どうしたら生きていてもいいと思えるのか、何をすればあの子が喜ぶんだろう、そんなことを探し始めました。
その頃です。幼児教室の先生に「ここで手伝ってくれない?」と声をかけられ、2年かけて保育士の資格を取りました。事情があってそこにはお世話にならなかったけれど、重症心身障害児施設や児童相談所の一時保護所、民間保育園などで保育士としてお仕事をしました。ずっと頭の片隅には、あの子のメッセージはなんだったろうという思いが離れませんでした。
いつも答えはわからなくて、前向きに生きているつもりなのに苦しくて、もがけばもがくほど空回りしている感じがしてきて、気がつけば自分で自分を押し込めるようになっていきました。そして、これ以上どうにもならないと感じて、心の勉強を始めたのです。
今、わたしの心の中には亡くなった三女の居場所があります。それは、わたしの痛みであり、生命の重みであり、生命の輝きでもあります。わたしが今を味わいながら生きて、お花を見てきれいだと感じるとか、おいしいものをいただいて身体が喜ぶと、三女が喜ぶのだと信じています。
これは、家族システムを学んだ恩恵です。わたしは、自分で味わっておいしいなって感じたものしか、他の人にも「おいしいよ」と言えないので、自分が受け取ったことでなにかお役に立てることがあればと思い、記事に書かせてもらいました。お読みいただきありがとうございます。