こんにちは
あなたの自己肯定感を高める専門家 しまむらまゆこです。
いっそのこと死ねたらどんなに楽なんだろうって考えたことがあります。
いちばん強く感じたのは※18年前、小さないのちを守り切れなかった自分には、母親としての能力もなく、人としての存在価値などあり得るわけもなく、あの子の後を追って行けたならどんなに楽なんだろうって思いました。(※生まれてまもなく亡くなった三女のことはこの記事に書いてあります。)
生きてるような死んでるような、ふわふわとあまり意識のない生活をしていました。
目の前の娘2人が、わたしの生きる理由でした。それだけでした。
元夫は、おそらく悲嘆に暮れているわたしが妻として戻ってくるのを辛抱強く待ってくれていたと思います。ただ、わたしは元の関係に戻れませんでした。一緒に痛みを分かち合うということがわからなかったし、新たな出発を始めることもできなかった。
あの頃のわたしは、何も寄せつけることもできず、受け入れることもできず、心を閉じて、死なないように自分を生かしておくということにエネルギーを使っていたように感じます。ひとりで背負うことしか頭になかったし、全部が私のせいだと自分を責めることで痛みとともに生きることしかできなかった。
自分を責め続けるというのは、目に見えない自傷行為です。
やり場のない喪失感や絶望、後悔、罪悪感をどうしたらよいのかわからず、無意識に自分の心を痛めつけて、痛みや苦しさを感じることで生きさせてくださいと神さまに乞うていたのかもしれません。
そうして、確実にわたしは弱っていったのです。
いや、無意識に限界値を越えようとしていたのかもしれません。
発熱、だるさ、発疹、腫れは波のようにやってたけれど、原因はわからず病院の薬で悪化するときもあり、時間の経過を薬にして、ただただ過ぎさるのを待っていました。
(のちに丹毒という連鎖球菌の感染による皮膚の化膿性炎症だとわかりますが、判明できるお医者さんはただひとりでした)
今だからわかることは、あんなにボロボロでヨレヨレで無力感と孤独感を感じていた自分は、実は何にも見えていなかったということ。ひとりですべてを抱え込んだような気分で、周りを見ることも助けを求めることも顔をあげることもできなかったということ。そして大切なものは何も見えてなかったし聞こえてこなかった。
あのとき布団に食事を運んでくれた妹は、そのことについては何も触れず、「ごはん、食べてね」とそっと置いていってくれたし、2か月後に出産を迎えた兄夫婦は、あの子の名前を一文字使ってくれた。娘2人は、今でもあの子を名前で呼んでいるし、父は実家にもお位牌を置いてくれている。遠方のわたしに代わって、母や妹は何かにつけお墓参りをしてくれている。元夫は、今でも関東から九州のお墓にお参りをしてくれているよう。(母が気がついて教えてくれます)
全部知ってはいたはずだけれど、ひとりひとりの深い思いからの行動だということは後々になってからはじめて気がついたことです。わたしがひとりで背負ったつもりになっていたというだけだったのです。わたしは、自分も三女も家族の一員であるという意識が抜け落ちていたのだということがわかりました。
人が亡くなることは、わたしたちに想像以上の悲しみをもたらします。さらに女性は妊娠、出産という経験を通して人としてとても重要な役割を持つことを深く感じとります。子どもを亡くすことは、深い深い喪失感。ぽっかりと穴があいたようなその喪失感は、悲しみとなって現れます。悲しみは自分にとって大切なものの深さを教えてくれるもので、悲しみそのままを感じきることで乗り越えることができます。
わたしは17回忌を迎える少し前に、三女とお別れをしました。(わたしがこの世での役割を終えたら、そちらに行きます。それまで、わたしはこちらに踏みとどまります。あなたの居場所はわたしの心の中にあります)というような言葉を伝えました。これが自然にできたことは、わたしにとって大きな進歩となりました。
わたしが心地よいと感じることは三女も心地よく、おいしいものを食べてエネルギーが満たされていくことは三女も気持ちよいのだと感じています。きれいなお花を見てうっとりしたり、癒されるのは、あちらの世界からの贈り物だと教えてもらいました。
以前、身近な人に心ない言葉を言われて、言葉が体中に刺さるように痛かったことを覚えています。自分を責めることは、心の中で自分自身に対して酷い言葉という刃物で体中を刺し続けていることと同じ、すなわち自傷行為です。自分を痛めつけないと生きてこれなかったわたしに気づき、少しずつ自分をいたわることを覚えていきました。これは、わたしにとってはセラピーであり、システミックコンステレーションとの出会いでした。